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生ける伝説
馬作りによって、合法的に競馬を作った男。

人馬育成のプロフェッショナル!

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と・・・過去の話を書いている訳ですが、今尚現役トップの腕利きとして活躍中であり、伝説はこれからも語り継がれるであろう。



⇒

通称S氏

茨城県在住東京生まれ。
小中学校時代にはヤンチャだったらしいが、スポーツは万能!
中学に上がると持ち前の身体能力を発揮して、特に走るのが速かった彼はリレーでは常にアンカーを任されていたそうである。



ご実家が商売をやっており、競馬関係者の常連客がいた事がキッカケで、ある日
カネになるぞ!騎手を志せ!と誘われ、興味を持つようになる。
当時は中央競馬と地方競馬の違いすら分からず、結果的に地方競馬教養センター騎手課程へ進み騎手を志す事となる
無事に免許を取得する事になった彼は、中央競馬に興味ある事に気付いたのであるが、時既に遅し!
無知であった為に、地方競馬教養センター騎手課程に行ってしまった事が大誤算だった。
その後、とある地方競馬からデビュー!
デビューした日に初勝利を挙げる。

そんなある日、当時その地域の競馬場で最も賞金の高い重賞レースに挑戦し重賞初制覇を挙げたのである。
これは快挙でもあったし、伝説の始まりでもあったのである。
やがてとある地方競馬場は、売り上げの低迷によって、多くの競馬場が廃止される事態に直面する事となってしまい、その煽りを受け、
南関東競馬への移籍が決まったのだ。



通算勝利数は700勝以上!
勝率は10%を上回るが
特筆すべきは1番人気馬騎乗時の勝率が4割を超える事であり、3桁の勝利数を収めている。

現役時代は文字通りガチンコジョッキーであった彼は、一方で、他場からの移籍組に対しその当時、時に恫喝を受ける事もあったらしい。

その中に於いて『
ヤ○ズの依頼』を受けた事もあったそうですが、
自身が勝負の場合には躊躇する事なく、先輩格の乗り役相手であろうが、『
俺も勝負だ!そんな話いくら頼まれようが受け入れる筋合いはない!』と言い放った。

いわゆる武闘派タイプの乗り役でしたが、決して悪い意味ではなく、
己の居場所を守るためであって、騎手を志した以上、不正に加担する事は流石に正義感がとても強かった若きし頃の彼にとって、到底受け入れる選択はなかったのである。

それが元で、ある日ある競馬場で、当時一番恐れられていた乗り役と殴り合いになってしまった。

しかし、これが元で周囲から一目置かれる存在となった彼に、殆どの乗り役が恐れをなし、妙な要求を受ける事もなくなりつつあった。

一切自分を曲げなかった為、その噂を聞きつけた船〇所属の大物で知られた、その当時の乗り役のボス的存在であった佐某氏からは、
とても真っすぐな彼を気に入ったのであろう。
その日から、非常に可愛がれたそうである。

南関通の方なら、この人物の事がお分かりになると思います。

賞金の稼ぎでは石○氏、カネを持ってるのは佐某氏

  と、当時の南関では噂されていたからである。

当時の若手の乗り役達にとても尊敬され、尚且つ、乗り役の中に於ても断トツナンバーワンは佐某氏であった。

その方は既に亡くなられております。
従って、かなり昔の話を書いていますが、当時はそのような背景があって、佐某氏から頼まれると、断りにくい空気もあったようです。
その佐某氏は、大物でありながら、決して偉ぶる事もなかった!

○○が勝負だって言うんならいいんだよ!周りなんか気にせず自分の競馬をするのが我々乗り役の仕事だからな。基本中の基本だ。』と言い残して去っていく。
決して乗り役達に何かを強制させるような事は一切なかったのである。

佐某氏は腕も立つのは当然として、若手中堅問わず、多くの乗り役達がみな憧れるほどのカリスマ性を持っていたと証言する人さえいる。

仕草や話し方は勿論、騎乗スタイルに至っても素晴らしかった!
性格も良く、その一言でファンになってしまった人もいたのだとか。
それほどの”
カリスマ性”を持っていたのである。

S氏が尊敬するのも無理はない!
男が男に惚れるというのはこのような事を言うのだから。

しかし、その方の死がキッカケとなって、乗り役を続けていくモチベーションが低下していく事に繋がって行き、
結果的に引退に向かう引き金となったのである。

それ以前までのS氏は、
お世辞にも良いとは言えない馬に騎乗しながらにして、常時リーディング争いを行っていたにも関わらず、モチベーションの更なる低下との戦いが待っていたのだ。

ある雲一つない晴天の日に、S氏は引退を表明したのである。

ところがなんと言う運命のいたずらだろうか!?

引退を表明した途端、好条件オファーが殺到する事態となり、
一瞬『
乗り役を続けようかな!?』と考え直す事態に直面する。

しかし
引退撤回を快しとは出来なかった彼は、全てのオファーを断ったのだそうだ!

後日談として
断らなければ良かったかも知れない!と、何度も考えた。そこまでの好条件での話しがあったので、自分もまだやれるだけの技量もあったし、馬質が上がればリーディング首位に立てただけの自信もあったんです。でも引退を決意した後、殆ど本気で乗ってなかったし、続けようとする気力すらなくなっていたのです。自分はそもそも営業が嫌いで、嫌いになった最大の理由は、大〇競馬場で当時からトップジョッキーでもあった大先輩のM氏が、馬主の前とゲート内で、まるっきり別人のように態度が変わるのを見てしまったからであった。あの二枚舌が当時の自分には我慢ならなかったんです。
例えば自分がデビュー時からこの馬なら重賞の一つくらい勝てそうだ!と、思っていた馬でさえ、2勝したあたりで彼に取られてしまった事など1度や2度ではなかったし、ゲート内では「
俺がこんなクソ馬に乗ってられるか!」と、自分の期待していた愛馬の悪口を言っていたか?と思えば、馬主の前では一転し「素晴らしい馬に乗せて貰って感謝しかありません(笑)」と、ニコニコしながらヨイショ!している。

この豹変振りを何度も見てきた事によって、アホらしくなって人間不信にも陥ってしまい益々営業が大嫌いになったのだ!


しかし、よくよく後になって
営業とはそういうものなのかな!?と言う事も理解もして行く内に、自分のやり方が間違っていたのかな?
と自ら胸に手を当ててじっくり考えてみたところ、現実に気付いたのです。

ちなみに、M場さんを憎んだりした事は一度もなかっと言いますので、人様に対して根に持つような自分を快良しとしなかったからだ。

ただ、あの当時の若かった自分には、そんな真似が出来なかっただけで、そこまでしてリーディングを目指すつもりもなかった事もあり、その葛藤の中でもがき苦しむ内に引退する事が最善である!と、決断したそうなのです。

引退後は育成場の共同経営の為、茨城県牛久市郊外の民間トレセン内に馬房を持ち細々と活動を開始。

馬が予想以上集まった事で、経営は軌道に乗っていき、社員も増えていく中、マイナー厩舎の馬を次々と勝たせていく。
その事が『
腕利き』と、評判が評判を呼び、馬もたくさん集まり順風満帆であった。

何よりも『
自分がやりたいように出来た事が、結果にも繋がっていた。』と言う。

ところがある日、経営者との考え方の相違により、より厳しい育成場にナンバーワン待遇で引き抜かれたのだ!

新天地でも馬を3倍以上に集める事によって、規模拡大に貢献する事になるものの、『
自分がやりたいように出来ない事』も増えてしまい、馬作りが自分の理想とするものと、少しづつかけ離れていくのであった。
結果的に壁にぶち当たる経験をする事になるが、めげる事なく、育成馬達をまずは未勝利戦を次々に勝たせていった!

余談ですが、中央に登録しても競馬馬にさえなれない馬もいるが、1勝も出来ずに中央競馬から抹消される馬達も多数存在するのが現実で、時にスーパー未勝利を勝った馬主が、まるで愛馬が重賞を勝ったかの如く、人目もはばからず、号泣する!

これが競馬の側面でもあるのです。
その中でも、殆どの未勝利馬を勝たせていく彼は、一般の人では乗りこなすことが困難なとても癖の強い馬を担当していました。

そこで考え方を少し変え、
やりたいようにやる時だけはやればいい!』と切り替えた。
最近はマニュアル通りにやらねばならない事も増えてしまっている状況だが、トレセンも同じである。

しかし腕利きの担当は、トレセンも外厩も『
ヤル時にはマニュアル通りになどやらず、自分が思った通り好きなようにヤル!』のは常識であり、これによって馬を前倒しで勝たせているのが現状でもある。



運命の出会い出会った人が超一流の厩人だった。


私、齊藤が彼と出合ったキッカケは彼が引退に伴って茨城県内に住居を構える時のお手伝いであった。
迷わず、大型3LDKのメゾネットタイプをオススメしたところ、気に入ってくださり、契約はスムーズに行われた。
ところが私自身、管理職昇進を目前にして、自主退社する事となってしまったのです。

それ以前から競馬サイトを運営していた事もあって、S氏に全ての事情を正直に話した上で、本当にお世話になりました。こんなかたちで辞める事になってしまいとても残念です。

自分は『
競馬サイト』を運営していますので『何か面白い話でもあれば是非お声を掛けて下さい!』と、お願いしてみた。

分かった!と言って下さったのですが、
期待度半分以下でした。

競馬サイト運営?・・当時そんな人を相手にするような関係者がいるとは思えなかった。

事実その当時は競馬情報会社でまともなところが殆ど存在せず、
競馬業界では『
情報会社=詐欺商法』がまかり通っており、
中央競馬会でも通達が回るほどだったのだ!

中でもある競馬雑誌に広告掲載されている情報会社は完全にブラックと認定されていた時代である。

要するにダメモトで頼んだのです。

ところが彼は、その約束を覚えていて下さったのです。

予想サイト運営後、ちょうど苦境に陥り会員数が70名を割ってしま
ったタイミングで彼と遭遇。

その時、手を差し述べてくれたのは彼だけだったのです。

しかし話をしていると、厳しい事はかなり言われました。

特に業界人にとって当たり前の事も知らないでいると『
人様からお金を貰う情報屋だとしたら現状では勉強不足だ!』と言われる事もしばしば。
しかしS氏と出会ったからこそ、このような基本的な事が身につくキッカケとなり、トレセン関係者ともスムーズに話が出来るようになっていく事にも繋がっていけたのです。

特定の職場内でしか通用しない『
職場用語』のような、競馬用語辞典にすら載ってすらいない専門用語も比較的多く、俗語のような事まで覚えていくと、トレセン関係者でさえ『意味がよく分からない』と言う場面も増えていく事にはなったが、知識が豊富になっていく事は悪い事ではなかった。
S氏からの厳しい修行期間を経て、自分はやっとプロ意識が芽生えていった。

2008年某月


ある日彼は『
俺は馬作りによって中央で合法的に競馬を作る事が目標!俺の話は予想ではなく情報だからね!近い内に連絡するから、ちょっと時間くれっかな!?それとさ!どうせやるんだったら、一流を目指してみれば!?』このように話した事は今尚鮮明に覚えております。ぶっきらぼうな中に温かみがある人物であって、今尚、変わってはいないところが、彼の素晴らしい人間性を表していた。

当初この話を聞いた時『
この人ってもしかして、ビッグマウスなのかな!?』とさえ思った事もありました。
近い内に連絡すると言ってから2週間経っても来る事がなかったので、半ば諦めていたところ、3週目の金曜日に彼から連絡が入ったのです。

2008年3月22日・中山2Rで推奨してくれた単勝8番人気のナイスラッキー号がゴール寸前内を突き3着!

単勝1.2倍の圧倒的1番人気馬トウショウゲームが馬群に沈み競馬そのものが荒れに荒れ、3連複39万馬券(平場3連単発売のなかった時代)
複勝1390円的中!

既にこの頃は会員様が大幅に増えており、300名以上は常時参加してくださっていました。

その後の彼はこのレベルは勿論の事、それ以上の事を何度もやってのけている事は多くの方もご存じだと思います。

当時会員様でない方にはお分かりにならない事なので、ここで補足する事にしましたが、ちょうとこの時期に
トレセン同志会は競馬最強の法則という雑誌で【殿堂入りメルマガ】として紹介され、S氏の実力だけで会員数が2000名も増加した時期でもあったのです。

私が想像するに『
俺は馬作りによって中央で合法的に競馬を作る事』を、彼は既にあの時から有言実行していたと思えた事と、『中央でも非合法に競馬を作る事もあるのかも知れない。』と感じた事があっても、それは口には出せなかったのです。

そんなある日、トレセンの食堂にいた私は某G1ジョッキーと話をしていました。

なぜかそこでS氏の話題になっていったのですが、S氏をべた褒めするほどの存在である事を聞いた時、
S氏はどこかが違う!と言う事がぼんやりから、確信に少しづつ変わっていたように思う。

彼は自分を大きく見せるような事を潔しとしなかっただけでなく、

そのような人物を好まなかったのです。

一方、正直な人間の面倒は見てあげたくなるタイプで、とても人間味あふれる存在であり、実際に多くの後輩達の面倒揉みて来ており、
リーディングジョッキーを輩出するまでに至る!

初めて、お願いした時の私は彼に悪い事まで正直に全てを話していたからこそ、彼は協力して下さったのだと思います。

彼を知れば知るほど『
外厩トップ』の型には収まらない事を知る事となって行きました。

抜群の相馬眼は勿論、人を見る目にも長けていたのです。

相馬眼に関しては、『
この仔は来年の今頃、このあたりのクラスでも勝ち負けになっている。』と言う事は、馬に跨っただけでも分かる!これは並みの一流ならば普通にわからなくてはならない事だが、それを上回る事の方が多いだけでなく、

時には何が何でも勝たせる為に、奥の奥の手まで用意し、
それを実行してきたのです。

例えばある馬が『
能力はあるのに未勝利のまま中央から抹消となりそうなケース』があったとしましょう。
そのままで終わらせぬ為様々な策を講じる。

2018年・これが衝撃的でした!
  

実 例
   
 ↓

スーパー未勝利を逃した馬で500万クラス卒業



同業者(牧場関係者)からの評価


美浦トレセン近郊の育成牧場関係者の間では『彼は、プライドの塊のような人或いは美浦近郊の育成牧場では熱い男トップ3に入る!』として知られ、一目置かれる存在である。

それだけでなく、武闘派でもあり、『半人前』と見なす人物には容赦しないようなところも見受けられました。

10年前の彼は確かにそうでした!
ところが、最近では人間性に丸みを帯びて来て、普通に敬語で話す事もありますし、優しい一面も数多く見受けられ、人間臭さとでもいいましょうか?
人から頼まれると嫌と言えない性格も持ち合わせており、本質が分かるまでに5年は掛かりました。


一方で馬乗り技術・馬に対する愛情深さ・知性と度胸・戦略・相馬眼・ゲート調教の達人これらに関してはずば抜けている。

仕事にとても厳しい事でも知られる一方、とても人情に溢れた人間であり、彼を慕って預託する馬主・厩舎も多く独立してこそ、今以上に能力が発揮出来る事くらい容易に分かるだけに、惜しいのです!


人を見る目
彼がこれまでに目に掛け、働き口を紹介した乗り役、厩務員のその後を見ると、いずれもリーディングトップ(厩務員は後に調教師ランキングトップ)になる等、その道の頂点に立っている事実を見ても、人を見る目も確かである事が結果として証明されている。

その事も含め、文字通り美浦近郊外厩ではナンバーワンの腕利きであり、抜群の相馬眼を持ちつつ『超一流の育成技術を持つ!』とも言われている事が少しはお分かり頂けるでしょうか!?

事例の一つとして、馬造りのプロとして時には乗り役さえ気付かぬよう、馬をパワーアップさせる事も挙げられます。

これによって、若手の乗り役に勝つ事をきっかけにして自信を持って貰う!そこが狙いなのです。

乗り役と共にきっかけや自信を与える事を人馬育成と言い、
これが出来てこそ一流と言われております。


それもさる事ながら、数多くの重賞勝ち馬を輩出している実績がある事にも目を向けて頂きたいと思います。


一方で彼の育成馬は馬券の組み立てが難解である事が多く、トレセン同志会時代に、ヒモ抜け同志会になってしまう原因にもなっていたのです。

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最新情報2020年2月
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S氏情報馬がドンピシャで好走する率が圧倒的に増加し、
相手抜けも殆どなくなりました。

人間やれば出来るんです!

要はやり方の問題だったのです。


        トレセン同志会
         (C)2003-2020 

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